白やぎと黒やぎの往復書簡

白やぎと黒やぎの手紙のやりとり、時々読まずに食べてしまいます。

頭の中にある言葉を整頓しつつ隙間なく記録する。

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相手がどんな話でも受け止めてくれると信じた相手には何も考えずにくだらない話ができる。相手の反応が薄かったりするととても残念な気持ちになり、そうなりたくなくて話せなくなる。くだらない話をわかってほしいわたしとわからない相手、それぞれの気持ちは自由なんだと頭で理解しても相手の反応の薄さが寂しかったなという感情から自分が楽しいと思ったくだらないことを否定してしまう。自分のことを認められたら相手がどんな反応でも大丈夫になるのだろうか。わたしのくだらないを受け止めてもらえたり、わかると言ってくれるひとがいると満たされる。それもいいけど、自分で認められたらそうではない人と話してもあなたは違うんだねとあっさり認められるようになるのだろうか。朝の通勤時に鳥の鳴き声に耳を澄ましバードコールをこっそり鳴らしたり、人間観察をしてにやりとしたり、こういうことを誰かに共有して共感してもらいたいと思うことがある。時々は友人と会ったときに話したりするんだけど、くだらなくて楽しいと思ったときにすぐに話せる相手がそばにいたらいいなと思う。さんくまちゃんと話すときは、だいたいいつも好きなわたしでいられたな、と思い出して寂しくなった。パフェパーティーも無理なときは言えたし、それはさんくまちゃんたちはきっとわかってくれる(あのときは、さんくまちゃんに直接言えなかったけど)と信頼しているからだ。信頼できるひととそうじゃない人がいてうまくスイッチを切り替えられたらいいんだろうけど、できないからそうでないひとを遮断してしまうほうが楽だなと思ってしまう。社交辞令は苦手だ。ひとりで好きな映画を観たり、音楽を聴くと安心するけど、それを誰かと共有したくなってできなくて寂しくなる。映画のことはインスタグラムに記録することですこし消化する。具体的でない共感のコメントがあると返答に困り、疲れてしまう。アバウトな内容だと共感もできないし、かといって具体的に話す気力もない。だから適当な返答になり、そんな自分が嫌になってしまう。疲れたら人を遮断して、元気になったら会いたい人に会って話すことが健全なのかもしれないな。あとは好きな物を食べて飲んで観たいものを観る聴く。今日はいつもどおりに早起きしてツナサンドを作ったら油を適当に切ってびしゃびしゃで、じゃがいもをレンチンして粗めに崩して足したらちょうどいい感じになった、それをサンドイッチ用の食パンに挟んで食べた。作って食べる行為はわたしの安定剤。あたたかいカフェオレも飲んだ。今から好きな音楽を聴きながら過ごすね。あたらしい朝がきた、グッモーニン。